「いけないことだけどやるしかない」これも”善”なんです

今日は”善”という言葉のお話です。みなさんは善という言葉をどういうイメージでとらえていますか?

一般的にはよいこと・正しいことという意味で捉えているでしょう。私もそうですし、国語辞書にもそういう意味だと載っています。一般的にはこれでいいのでしょう。ただここではアドラー心理学での捉え方での”善”をご案内していきます。

アドラー心理学の解説書ともいえる「嫌われる勇気」では46ページあたりに載っているお話です。アドラーの言う「善」は日本語のそれとは若干違います。もともとギリシャ語で「ためになること」と訳されるものです。ということでアドラー心理学では、善とは「自分(及び周囲)にとってためになること」としています。それが正義かどうかとか、法的に正しいかどうかは善には関係しません。自分にとってためになっていればそれは(あなたにとっての)善なのです。

だからと言って全くの自分本位な考えで無秩序に行動していいというのではありません。単純に悪を遂行しているのではない。悪い行為とはわかっているけどその人にとっては悪事をするだけの「内的な然るべき理由がある」からそうしてしまう。それが「その人にとっての善(=ためになること)」の遂行ということなのです。

冷静に考えられる状態では、人は当然ながら正義かどうか、法的に間違っていないかどうかを優先的に判断して行動します。しかしいろいろ追い詰められた状態(極限状態)になると正義かどうかなど考える余地がなくなります。そんなときに「自分にとってためになる行動」を選択しようとするのです。
例えるなら、理不尽に不審者に刃物で襲われた時に、たまたま目の前に合ったバットで殴ってしまうのも「善」です。相手にけがをさせる犯罪行為だとわかっていても、そうしないと自分の生命が脅かされる。法律を遵守した結果死んでしまうのと、理不尽な攻撃から身を守るために犯罪を犯すのとで「どっちが自分のためになるか」と考えた上で選んだ行動なのですから。

最近話題の日大アメフト部の危険プレー事件。私は危険プレーを犯した部員の記者会見を見たときに、彼の心理・行動が「アドラーの”善”」にあてはまるのでは、と感じました。

彼にとってのアメフトとは。
高校で楽しさを知り、練習に励み試合で活躍。大学でも続けてレベルを高め、将来はアメフトの実績で社会人チームへ入る(=就職)ことまで考えることができます。いわば彼自身を体現するものであり、彼の人生を語るうえで外すことのできない存在。それが彼にとってのアメフトだったと思われます。

しかし監督やコーチの理不尽な方針で試合に出してもらえない、それどころか練習にさえ参加できない。これではスキルアップが望めない。それどころかアメフトを奪われてしまう、アメフトを失ってしまう・・・彼はきっとそんな恐怖を感じたのではないでしょうか。
アメフトを失うことは彼にとって自分の存在感、自分の人生を失うような恐怖と思われます。それは何としても避けたいところ。必死に試合に出る方法、練習に参加できる方法を模索するのは必然です。

そんな時に監督・コーチに言われた条件はみなさんご存じの通り。
それはいけないことだと彼も当然理解していました。でもそれで断れば彼は間違いなくアメフトを失うことになる。それは「彼の存在感や今後の人生を失うに等しい」という思いに陥ったのではないでしょうか。
彼がアメフトを手放さない方法、しいては存在感や今後の人生を守るためには、正義かどうかに関係なくこの指示に従うこと。それが彼にとって”善”だった。アドラー心理学の”善”の考え方に当てはめるとこう説明できるのです。

同じように監督の行為も監督にとっての善なのです。
選手が真相を明らかにし、報道が次々と証拠を挙げているにもかかわらず指示したことを認めない。それは監督の内面で何かしらかの算段があり、そうすることが監督自身のためになる、すなわち善なのです。

両者とも善に基づいた行動であるのは共通しています。しかし彼のほうは善を活用して成長し、監督は善に縛られ自分の首を絞めているのです。
・・・と、ここからは今日の本題に関連して「善を理解したその先のお話」をちょっとだけしていきます。


「嫌われる勇気」の中では善についてこう書かれています。
変わりたい(性格や人格を変えたい、成長したい)と思っている人がなかなか変われずにいる。それは変われないのではなくて「変わらないでいることが善である」と考え、変わろうとしないだけである、と。
人間が変わろうとするということは、今までのあたりまえの環境から新たな世界に踏み出すこと。環境や人間関係が大きく変貌することになります。中には自分の思い通りにならないこともあるでしょう。変わるにはそれなりの覚悟(勇気)がいるのです。言い換えれば勇気があれば人は今すぐにでも変わることができる、と。

反面、今のままでいれば環境も人間関係も変わりません。変わらないことは楽なのです。大変なことをしたくない、楽なままでいたいとという思いから変わろうとしないほうが善であると判断する。変わりたいと思っていても自分で変わらないことを選んでいる。だから変われないんだ、と。

彼はそれまでの「アメフトを失わないようにするのが善である」という主観を「それよりもルールを守ることが善である」と変える勇気を発揮したのです。そして開いたあの会見。あの姿に私は若いなりに大人の対応をしているなぁ、人間的にできた人だなぁと感じました。みなさんの中にもそう感じた方は多いのではないでしょうか。彼は自身の善に対する主観が間違っていると認める勇気、それを変える勇気を持ち、実行したこと。それは自身の人間的成長につながったでしょう。

一方であれだけの証拠が発覚してもなお指示したことを認めない監督は、「保身こそが善である」という主観に縛られてしまっていると考えられます。この主観に縛られ続ける限り、監督は自己を正当化し続けなければなりません。その理由探し(こじつけ)に追われ、嘘をつき続けるのに苦しむ人生になることも考えられます。
このままでは自分で自分の首を絞めることになりそうです。自分が信じている善が実は間違っていることに気づかない限りは。

 


今日は”善”についてのアドラーの考え方を中心に、ついでに「変わりたいのに変われないのはどうしてか」というテーマにもちょっとだけ触れてきました。
いかがでしたでしょうか?「嫌われる勇気」に書かれていた”善”についてイマイチわかっていなかった方がこれでご理解できたならば嬉しく思います。

 

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